4時半近くなってから、会は始まった。 30人ほどの集まりだ。
司会者がマイクを持って自己紹介をしている。
最後に、司会者が言った。
「松下大蔵大臣の入場です!」
拍手が起こり、入り口から司会者の方へ、松下大蔵大臣が手を振りながら歩いて行った。
「ただいま、ご紹介に預かりました松下でございます。
ニューヨークの稲門会に出席させていただき、まことに光栄です。」


『少し訛ってるなぁ・・・・・。 テレビで見るのと同じ顔だ。 当たり前か。
思ったよりも背の低い人だなぁ・・・・・。』
そんなことを思ってぼんやりと見ていた。
『話の内容は大した事じゃあないけれど、迫力があるな。
こういうのをカリスマと言うんだろう・・・・・。』
『そういえば顔がおサルさんに似ているなぁ。
赤いチャンチャンコが似合いそうだなぁ・・・・・。』
松下大蔵大臣のスピーチが終って、ニューヨーク稲門会の会長が紹介された。
日本の大手家電メーカーのアメリカ子会社の社長だそうだ。
もう60歳は超えているのだろうが、松下大蔵大臣に負けないくらい元気で大きな声だ。
『偉くなる人って、元気で長生きなんだろうなぁ・・・・・。』
ニューヨーク稲門会の会長が大きな声を一層大きくして言った。
「・・・・・・・・ですから、われわれ一丸(いちがん)となって、松下大蔵大臣に、是非、総理大臣になっていただきたい!」
『どうして、われわれ一丸となってなのかなぁ・・・・・?
俺は別にどっちでもいいんだけど・・・・・。
大蔵大臣だってじゅうぶん偉いじゃない・・・・・。』
松下大蔵大臣がニューヨーク稲門会会長のエールに応えるがごとく話し出した。
「ぼくは、できれば総理大臣になりたいと思っています。
でも、なれないかもしれない・・・・・。
皆さんもご存知の通り、昨年のプラザ合意以降、急激な円高が続いています。 最近の日本は景気が悪く、円高不況とまで言われています。
皆さん、わたしのあだ名を知っていますか?
【円高大臣】です・・・・・。
わたしの人気は国内でがた落ちなんです・・・・・。
実は今回も、コロンビア大学の名誉博士号なんてのは口実です。
今日も財務長官と直談判ですよ。
日本はもうこれ以上の円高には対応しきれないと言ったんですが、アメリカ側は貿易収支の改善のために、さらなる為替レートによる調整を要求してきました。
今回も日本が負けました。
もう一段、円高になるでしょう・・・・・。
円高不況の責任を追及されて、わたしの人気はまた落ちるでしょう。
だから、ぼくはもう総理大臣になれないかもしれない・・・・・。」


『おい、おい、そんなこと、言っちゃって、いいのぉ・・・・・?』
俺は小用に立つ振りをして、会場の入り口から出た。
階段を降りて、日本クラブの黒い服を着たおじさんに、
「ちょっと急用で出てきます。すぐに戻りますから。」
と一言断って外に出た。
日本クラブのまわりから、少し離れようと思った。
田辺課長に電話をしようと考えたのだが、日本クラブの近くでは誰か日本語がわかる人がいるかもしれない。 |
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この当時には、携帯電話はまだない。
公衆電話は道路の角ごとにいくらでもある。
俺は次のブロックまで歩いて、公衆電話にコインを入れた。
時計を見ると5時半だ。
『田辺課長、まだ会社に居るかなぁ?』
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ディーリング・ルーム直通の電話番号を押した。
「トゥルルルル・・・・・トゥルルルル・・・・・トゥルルルル・・・・・トゥルルルル・・・・・トゥルルルル・・・・・トゥルルルル・・・・・トゥルルルル・・・・・トゥルルルル・・・・・」
『もう・・・・・。 誰も出ないじゃないか・・・・・。
もうみんな帰っちゃったんだ・・・・・。
今日みたいな、こういうときはニューヨーク・スタイルの5時かっちん帰りは困る・・・・・。
でも普段はものすごく良い習慣なんだけど・・・・・。
田辺課長、まっすぐ家に帰ったかなぁ・・・・・?
飲みに行っちゃてたら、連絡の付けようがないぞ・・・・・。』
胸のポケットから手帳を取り出して、田辺課長の自宅の番号を探した。
「トゥルルルル・・・・・トゥルルルル・・・・・ ハロー?」
『おお! いた! 田辺課長の声だ!』
「もしもし、梅田です!」
「あれ、どうした?
終ったのか、大蔵大臣は?」
「いやいや、えっとですね・・・・・。
その・・・・・、 あのですね・・・・・。」
俺はあわてて、しどろもどろになった。
「なんだよ。 あわてずにゆっくりしゃべれよ。
日本語でいいんだから。 ハハハ・・・・・。」
「はい。 えーとですねぇ。
今回、松下大蔵大臣がニューヨークに来たのは、博士号の授与式のためではなくて、財務長官と為替レートを話し合うためだそうです。
アメリカの要求でもう一段の円高になる、今回も日本が交渉に負けたと言ってました。」
「おい! ほんとかよ?」
「いや、ぼくもびっくりしたんですけど、松下大蔵大臣本人がそう言ったんですよ。」
「そっか、うちのドル・円のポジションはどうなっていたっけ?」
「ニューヨーク支店で30本、ドル・ショートになってます。」
「そっか。 いいじゃないか。
それって梅田のポジションいっぱいだよな?」
「はい。 そうです。」
「よし、じゃあ、まず、梅田、お前が今から東京に電話してドル・円を50本売れ。
売り終わったら俺んとこへ、もう一回電話をしてこい。
東京にはわけを話すな。
いいな。
お前が東京に電話をしている間に、俺は関口支店長に連絡して50本の取引の許可をもらっておくから。
それで、お前が50本売ったことを確認してから、俺が東京に理由を説明する。
いいな?
わかったな?」
「はい。 わかりました。
じゃあ、そうします。」
ここで言っているドル・円のポジション(Position)とは、思惑(おもわく)で張っている外国為替の持ち高のことだ。
ディーラーはドル安円高になると考えている場合には、あらかじめドルを売って円を買っておく。
逆に、ドル高円安になると思っているときには、ドルを買って円を売っておく。
「ドル売り円買い」の持ち高を持つことを日本語では「ドルの売り持ち」、英語では「ドル・ショート(Dollar Short)」と言う。
「ドル買い円売り」の持ち高を持つことは、「ドルの買い持ち」、「ドル・ロング(Dollar Long)」と言う。
それから、ドル・円1本とは、百万ドルのことだ。
このところ、ドル安円高のトレンドが続いていたので、俺はドル・円を30本、すなわち3000万ドルを売っておいた。
この当時としては、ドル・円30本の持ち高は決して小さい金額ではない。
ディーラーのポジションとしては、むしろかなり大きい方だろう。
田辺課長はこの情報に基づいて、さらに50本、5000万ドルを売れと言ったのだ。
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